乾燥こんにゃく幸物語の物語

《乾燥こんにゃく幸物語》の物語

 「私が交渉に乗り込んだが、結局、人質となり両わきから銃を突き付けられ、そのまま海岸から引き揚げ船が出ていくのを見送ったんです。」…(石井正治著『南から』)
敗戦後、日本軍のインドネシアからの引き上げに際して、インドネシア人、日本人双方に相手が襲ってくるのではないかという流言飛語が飛び交う中、石井正治氏は混乱なく撤去できるよう一人で民衆との交渉に向かった。
しかし、結局人質となりそのまま一年間の独房生活。その後インドネシア独立気運の高まる中、インドネシア軍兵士として独立戦争に参加……。流転の日々が始まった。
それから半世紀以上がたち、インドネシアで6つの会社その総従業員数6000人を有する企業体の会長となった石井氏は、インドネシアに対して感謝する心は人一倍強い。
現在石井氏正治氏は、こんにゃく芋の故郷インドネシアからアンビコ社の会長として乾燥こんにゃくを生み出し、日本に向けて出荷している。インドネシアでは使われないこんにゃく芋を生かし、当地の雇用の確保と外貨の獲得につなげる。それが敗残兵を受け入れてくれたインドネシアへの恩返し、と石井正治氏は信じている。
 
石井正治氏は、2002年7月27日帰らぬ人となりました。インドネシア独立の英雄としてインドネシア国軍の儀仗兵に守られスラバヤの日本人墓地に入り、永眠されています。生前1989年には当時の日本国通産大臣より経済協力貢献者として表彰され、1992年には勲五等瑞宝章を拝受されています。